2010年05月14日
石垣島の地史―概説私案―
皆さーん、こんにちは
5月1日に開催されました「地質の学校」でお渡しした資料「石垣島の成り立ち」(正木校長概説私案)の全文です。
島の地図をお手元に、想像力を翼に、さあ、島の大地の歴史旅行に出発しましょう
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【石垣島の地史】―概説私案―
石垣島の成り立ちについて
まえがき
八重山の旧家の家系図でも、せいぜい550年前ぐらいからの記録でしょう。
それは地球が誕生した45億年の歴史にくらべると、ほんの「瞬間」です。
白居易の詩に『蝸牛角上何をか争う 石火光中に此の身を寄す』という文句があります。
狭い地球上で何を争っているのか、火うち石の火花が瞬く時間の人生だぞ、ということです。
しかし、私達は、遠い過去を振り返りながら、現在(足下)をよく理解して、
残された人生を見すえて、有意義に生きていきたいものです。
さて、歴史学、考古学などは過去を振り返って見る学問ですが、
それでも、せいぜい2万年前ぐらいの様子しか分かっていません。
しかし、地質学や地史学など、最近の科学技術を駆使した学問では、
かなり古い時代の様子が、かなり詳しく解るようになってきました。
地球科学の発達には目をみはるものがあります。
ところで、みなさんは、いま私達が生きている「石垣島」が、いつごろ、どこから来て、
現在の位置にあり、島がどのように変化して来たかを考えたことがありますか。
いろいろな地質・地史などに関する研究結果などから
島の成り立ちや変遷などを推測して、まとめてみることにしましよう。
これはあくまでも私案であります。
石垣島が形作られてきた順序
①はじめにユウラシア大陸の東海岸沿いに「平久保半島の山々が、
深い海(太平洋側)の底から、ゆっくり押し上げられてきて、
山脈として聳え立つようになったのです。
平久保半島の山々が、大陸東岸で海から顔を出してのは、白亜紀 (1億4千万年前) のころでした。
この山脈の地層はトムル層と呼ばれ、明石の南東方にある富盛崎(トゥムルザキ)が標本地です。
この平久保半島の山脈を作っているトムル層が、
深い海底で圧力や熱による変成を受けたのは、
古生代石炭紀~中生代三畳紀・2億数千万年前のことでした。
トムル層は、はるか南方のマリアナ諸島付近の深い海底にあったと考えられています。
海洋底の拡大によって移動してきたときに、
大陸東岸の海溝にたまっていた堆積物が剥ぎ取られて陸側に押しつけられて隆起してきたものです。
(付加体という)図参照.

②平久保半島の山々が聳え立つようになった時より少し遅れて
バンナ岳・万勢岳・観音堂一帯の地層が、海の中から顔を出してきました。
この地層もトムル層と同じように付加体となって、山塊を形づくっていたのです。
この地層は富崎層と呼ばれています。
トムル層や富崎層などは、海から顔を出しても、ずっと大陸の一部であったのです。
③大陸の縁であった平久保半島やバンナ岳周辺山々だけを残して、
石垣島付近は、約4,000万年前、地殻の変動に伴って、暖かい海に囲まれてきました。
その浅い海に有孔虫の死骸(ペラスティペラ)や石灰藻、カキなどが堆積し、
石灰岩、また泥岩や砂岩が堆積してきました。これらが宮良層です。
宮良牧中の高台や、アカハチの足型などのある大浜海岸などの岩石などです。
宮良層の堆積後に火山活動があって、
野底層(火山による溶岩や火山灰からできた地層)が降り重なりました。
野底マーペーや屋良部半島の山々は、その火山活動の産物です。
御嶽崎のブナリヌツブルなどは火山灰が固まった岩です。
④約2,900万年前、おもと岳を中心に、
川平半島にかけて見られる火成岩・花崗岩体が、海の底から、ゆっくりと盛り上がってきました。
その当時は、すでに宮良高台や野底岳・屋良部岳一帯、
バンナ岳一帯、平久保半島は出来上がっていました。
そこに於茂登花崗岩が、島と島の間の海の底から、おもむろに姿をあらわしてきたのです。
つまり於茂登岳は、島ではその高さを誇っていますが、地史的に見ると新顔なのです。
⑤これまで大陸の縁であった琉球列島は地殻変動によって
先島諸島付近やその北側が陥没し、そこに海が侵入して広がり、
西表島や与那国島を形作っている八重山層が堆積しました。
それは、まわりの陸地から流れ込んだ土砂や植物などが海底に堆積したのです。
石炭の層もでました。それは約2,300~1,600万年前のことです。
⑥その後、八重山層が堆積した浅い海は、約170~130万年前には、
地殻変動と氷河性海水準の変動によって隆起して陸地となり、しばらく大陸と陸続きとなっていました。
⑦約130~70万年前ごろには、海水準が高くなって、琉球石灰岩が堆積したのです。
⑧そのあと、約70~30万年前には、海面低下によって大陸とつながりました。
そのころにサキシマハブが渡ってきました。
⑨約20~12万年前は間氷期であり、海水面が上昇して、島にサンゴ礁が発達しました。
琉球列島は完全に「島の時代」を迎えました。川平湾などに見られる「ヤシ林化石」を含むサンゴ石灰岩でしょう。
⑩約2万年前の最終氷期には、海面が約120m.低下し、
島が広がり、島伝いに山下町洞人や港川人などが渡ってきました。
空港予定地の洞穴の人骨もそのころでしょうか。
⑪1万年~現在まで。2万年善の最終氷期が終わると、
海水面は次第に上昇し、陸域はだんだん狭くなってきました。
約9500年前から現在のサンゴ礁が形成されはじめました。
海水準の変化に伴ってノッチやビーチロックが形成されました。
以上。



5月1日に開催されました「地質の学校」でお渡しした資料「石垣島の成り立ち」(正木校長概説私案)の全文です。
島の地図をお手元に、想像力を翼に、さあ、島の大地の歴史旅行に出発しましょう

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【石垣島の地史】―概説私案―
石垣島の成り立ちについて
まえがき
八重山の旧家の家系図でも、せいぜい550年前ぐらいからの記録でしょう。
それは地球が誕生した45億年の歴史にくらべると、ほんの「瞬間」です。
白居易の詩に『蝸牛角上何をか争う 石火光中に此の身を寄す』という文句があります。
狭い地球上で何を争っているのか、火うち石の火花が瞬く時間の人生だぞ、ということです。
しかし、私達は、遠い過去を振り返りながら、現在(足下)をよく理解して、
残された人生を見すえて、有意義に生きていきたいものです。
さて、歴史学、考古学などは過去を振り返って見る学問ですが、
それでも、せいぜい2万年前ぐらいの様子しか分かっていません。
しかし、地質学や地史学など、最近の科学技術を駆使した学問では、
かなり古い時代の様子が、かなり詳しく解るようになってきました。
地球科学の発達には目をみはるものがあります。
ところで、みなさんは、いま私達が生きている「石垣島」が、いつごろ、どこから来て、
現在の位置にあり、島がどのように変化して来たかを考えたことがありますか。
いろいろな地質・地史などに関する研究結果などから
島の成り立ちや変遷などを推測して、まとめてみることにしましよう。
これはあくまでも私案であります。
石垣島が形作られてきた順序
①はじめにユウラシア大陸の東海岸沿いに「平久保半島の山々が、
深い海(太平洋側)の底から、ゆっくり押し上げられてきて、
山脈として聳え立つようになったのです。
平久保半島の山々が、大陸東岸で海から顔を出してのは、白亜紀 (1億4千万年前) のころでした。
この山脈の地層はトムル層と呼ばれ、明石の南東方にある富盛崎(トゥムルザキ)が標本地です。
この平久保半島の山脈を作っているトムル層が、
深い海底で圧力や熱による変成を受けたのは、
古生代石炭紀~中生代三畳紀・2億数千万年前のことでした。
トムル層は、はるか南方のマリアナ諸島付近の深い海底にあったと考えられています。
海洋底の拡大によって移動してきたときに、
大陸東岸の海溝にたまっていた堆積物が剥ぎ取られて陸側に押しつけられて隆起してきたものです。
(付加体という)図参照.

②平久保半島の山々が聳え立つようになった時より少し遅れて
バンナ岳・万勢岳・観音堂一帯の地層が、海の中から顔を出してきました。
この地層もトムル層と同じように付加体となって、山塊を形づくっていたのです。
この地層は富崎層と呼ばれています。
トムル層や富崎層などは、海から顔を出しても、ずっと大陸の一部であったのです。
③大陸の縁であった平久保半島やバンナ岳周辺山々だけを残して、
石垣島付近は、約4,000万年前、地殻の変動に伴って、暖かい海に囲まれてきました。
その浅い海に有孔虫の死骸(ペラスティペラ)や石灰藻、カキなどが堆積し、
石灰岩、また泥岩や砂岩が堆積してきました。これらが宮良層です。
宮良牧中の高台や、アカハチの足型などのある大浜海岸などの岩石などです。
宮良層の堆積後に火山活動があって、
野底層(火山による溶岩や火山灰からできた地層)が降り重なりました。
野底マーペーや屋良部半島の山々は、その火山活動の産物です。
御嶽崎のブナリヌツブルなどは火山灰が固まった岩です。
④約2,900万年前、おもと岳を中心に、
川平半島にかけて見られる火成岩・花崗岩体が、海の底から、ゆっくりと盛り上がってきました。
その当時は、すでに宮良高台や野底岳・屋良部岳一帯、
バンナ岳一帯、平久保半島は出来上がっていました。
そこに於茂登花崗岩が、島と島の間の海の底から、おもむろに姿をあらわしてきたのです。
つまり於茂登岳は、島ではその高さを誇っていますが、地史的に見ると新顔なのです。
⑤これまで大陸の縁であった琉球列島は地殻変動によって
先島諸島付近やその北側が陥没し、そこに海が侵入して広がり、
西表島や与那国島を形作っている八重山層が堆積しました。
それは、まわりの陸地から流れ込んだ土砂や植物などが海底に堆積したのです。
石炭の層もでました。それは約2,300~1,600万年前のことです。
⑥その後、八重山層が堆積した浅い海は、約170~130万年前には、
地殻変動と氷河性海水準の変動によって隆起して陸地となり、しばらく大陸と陸続きとなっていました。
⑦約130~70万年前ごろには、海水準が高くなって、琉球石灰岩が堆積したのです。
⑧そのあと、約70~30万年前には、海面低下によって大陸とつながりました。
そのころにサキシマハブが渡ってきました。
⑨約20~12万年前は間氷期であり、海水面が上昇して、島にサンゴ礁が発達しました。
琉球列島は完全に「島の時代」を迎えました。川平湾などに見られる「ヤシ林化石」を含むサンゴ石灰岩でしょう。
⑩約2万年前の最終氷期には、海面が約120m.低下し、
島が広がり、島伝いに山下町洞人や港川人などが渡ってきました。
空港予定地の洞穴の人骨もそのころでしょうか。
⑪1万年~現在まで。2万年善の最終氷期が終わると、
海水面は次第に上昇し、陸域はだんだん狭くなってきました。
約9500年前から現在のサンゴ礁が形成されはじめました。
海水準の変化に伴ってノッチやビーチロックが形成されました。
以上。


Posted by 石垣島海森学校 at 10:54│Comments(0)
│海森学校校長室より