2010年04月08日
島ざくらの元祖

「島ざくらの元祖」 正 木 譲
サクラは国花である。古くから日本人の「心」であった。かつては「花は桜木人は武士」と云われ、大和魂の象徴でもあった。この花の散りぎわの潔さが尊ばれ、切腹や特攻につながっていった。ある詩人が「桜の木の下には死体がある」と云った。然りである。サクラは美しいが、その幻影が恐ろしい。
日本では、単に「花」といえばサクラである。『花は里より咲き初め、紅葉は山より染め初める』ということわざがある。つまり、サクラは暖かい里の方から咲き始め、次第に山肌を咲き登っていき、紅葉は寒さの早く来る山頂から色づき、麓の方へ下ってくるというのである。
本土ではサクラといえば、大方「染井吉野」という種であるが、沖縄のものは「寒緋桜・カンヒザクラ」である。名護城址では登り口で、まだ五分咲きだが、中腹では満開、さらに頂上まで登ると、葉ざくらとなっていることが良くある。
カンヒザクラは、山頂から咲き出し、次第にふもとへ下りてくる。これは、『花は里より咲き初め…』とは、まったく逆な現象である。
ネパール・ヒマラヤの標高三千メートル付近の森林で、まだ十月だというのに大満開のサクラに遭遇したことがある。一帯の森は、秋とはいえ紅葉する木もなく、濃緑のままであった。グリーンを背景にした深紅色のサクラの巨木に、思わず息を呑んだ。
樹幹へ駆け寄り、抱きかかえてみたが、妻とふたりの手では到底足りない。我に返って足もとを見ると、一面、緋色の絨毯(じゅうたん)だ。ふり仰ぐと、花は釣鐘状に咲いている。散り敷かれた花も房がついたままだ。花の色も、樹皮も、枝振りも沖縄のサクラと、まったく同じだ。沖縄で見た「ヒカンザクラの原産地=ヒマラヤ」の説明板がひらめく。
僕らは、いま島ザクラの元祖の下にいるのだと気づき、感動に震えた。大老木に合掌。水筒のレモン・ジュースで乾杯し、ふたりでしばらく元祖の花見を楽しんだ。
ポーター(荷担ぎ人)に急かされて森を下っていくと、次第に五分咲き、二分咲きとなり、標高二千メートルぐらいの村々では、まだつぼみであった。ヒマラヤでも沖縄と同じである。
春の花は、一般に暖かいほど早く咲く。しかし、その暖かさの前に、ある程度の「寒さ」を経験しないと、花は咲かない。これを植物生理学では、春化作用(バーナリゼーション)というらしい。
亜熱帯の沖縄は、いつでも暖かいから、むしろ「寒さ」の程度が、より重要となってくる。ヒカンザクラの開花には、十二月初めごろの寒波や冬至寒(トゥンジー・ビーサ)程度の寒さで十分なのであろう。
山頂は、常にふもとより寒い。したがってヒカンザクラは、寒さの早く来る山頂から咲き出し、次第にふもとに下りてくるのである。同じ理由で、「沖縄のサクラ前線」は、本土とは反対に、早く寒くなる県北部から動き出し、次第に県内を南下していく。
人生もまた、開花・結実のためには、あるべき時期に適度な「寒さの体験」が必要なのではなかろうか。きびしい寒さの少ない八重山に育った僕は、少々、バーナリゼーション不足だったのかも知れない。
“島ざくら大和魂なかりけり” 礁 湖

カトマンズ西方、標高2500m付近の村で
Posted by 石垣島海森学校 at 11:19│Comments(0)
│海森学校校長室より